2017/01/31

【読書日記】2017年1月30日



読書番号2017-9
カミュ 異邦人(新潮文庫 第57刷)
98頁まで

ムルソーは海辺でアラビア人を射殺してしまいました。
彼のことを私は、何に対しても「どうでもいいと思っている人」と
昨日書きましたが、それがたとえ人の生き死にに係ることであっても、
やはりそうなのかも知れません。

この小説を読み進めるうちに抱く主人公に対する違和感は、
まるで魂が宿っていない人形の様な、もぬけの殻の様な人物に
読む側が同化できないからかも知れません。

裁判の最中に居並ぶ陪審員を前にして、
電車の向かい側の席に座る乗客の様を想ったり、
法廷内で視線を浴びるなか、今更の様に
ああ自分は被告なのかと感覚したり。

「きょう、ママンが死んだ」という冒頭の一節は、
最初に触れた時とは今やずいぶんと
趣を変えて私の中に在ります。

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2017/01/29

谷崎潤一郎 細雪(中央公論社 単行本)



谷崎潤一郎 細雪(全)
中央公論社 単行本 第5版
印刷者 大橋芳雄 昭和25年1月20日
製本 記載なし
装幀・口絵 小磯良平



谷崎潤一郎の小説は今までに、
「痴人の愛」「春琴抄」「猫と庄造と二人のをんな」を読んでいます。
よく言われることだと思いますが、
描く女性がとても魅力的な人だと思います。
「痴人の愛」のナオミはエキゾチックですし、
「春琴抄」の春琴も凜としたところがいいです。
谷崎の長編を他にも読んでみたいと思っていたので、
この本はちょうど良いタイミングでした。



それにしても、昭和25年の印刷ですので
だいぶ経年を感じさせます。
箱は綻びが生じていますし、
背表紙も頁と剥離してきています。
大切に読むことにしましょう。

2017/01/29

【読書日記】2017年1月28日~29日



読書番号2017-5
村上春樹 意味がなけれがスイングはない(文春文庫 初版)
155〜188頁
257〜287頁

読書番号2017-9
カミュ 異邦人(新潮文庫 第57刷)
50頁まで

少し前にも書きましたが、
私は週末にお酒を愉しむときはエッセイを読みます。
村上春樹の「意味がなければスイングはない」は音楽家に関する
思いを綴ったものです。
気が向いたときに、気が向いた頁から読むのが
自由で良いのです。
今回はルービンシュタインとゼルキンという
対照的なピアニストについて、
そしてプーランクについての章も読みました。

私は中学の頃に初めてベートーベンのピアノソナタの
CDを買ったのですが、その演奏者がルービンシュタインでした。
特に「月光」については彼の演奏が自分の中の基準の様に
なっていたと思います。
最初に触れた演奏家が自分の中の軸になるというのは
よくあることかも知れません。
ビバルディの「四季」もそうで、
カラヤン、アンネ・ゾフィー・ムター、ウィーンフィルの録音が
今でもいちばん良いと(私の聴いたなかでは)思います。
村上さんはこの章のなかで、
ルービンシュタインの自伝について触れています。
じつは私も彼の自伝はずいぶん昔に、
図書館で借りて読んだ覚えがあります。
印象は、ずいぶん女性にモテる人だったのだなということと、
人生を欲しいままに謳歌した人、という印象です。
対象的なピアニストとしてゼルキンのことも書いているのですが、
彼について、私は名前しか知りません。
「ハンマークラヴィア」ソナタがゼルキンの特質を知るのに良いと
村上さんが書いているので、こんど試してみようかと。
プーランクは名前しか知りませんでした。
Apple Music(アップルの月額定額音楽配信)に加入しているので
少し聴き込んでみようかと思います(気が向いたら)。

「異邦人」はこれを書くつい先ほどまで読んでいましたが、
まだ三分の一くらいでしょうか。
ムルソーは何に対しても「どうでもいいと思っている人」なのでしょうか。
今のところ、そんな印象しか抱けないのですが。

2017/01/28

南部古書会館の五反田遊古会



今日は良いお天気でした。
そしてとても暖かかったと思います。
ここのところ、寒波でだいぶ冷たい日々でしたので
今日は絶好の古書店巡り日和といった感じでした。

午前中に掃除・洗濯を終わらせてから五反田を訪れました。
南部古書会館で五反田遊古会という古書市が
催されているためです。

写真左側の白い建物が南部古書会館です。
ボリューム満点の古書市でした。
1階だけでなく2階も会場になっていて、
2階へ上がる時には荷物を預けて番号札を受け取り
階段を昇ってゆきます。

今日は5冊も買いました。
漱石の縮刷や谷崎潤一郎、三島由紀夫です。
こんど此処で紹介しますね。
じつは安部公房や川端康成の気になる本も在ったのですが、
私は自分で持って帰れるだけの冊数しか買わないので
今回は諦めました。楽しい古書市でした。

2017/01/28

頁の間から栞



ブログ内の記事カテゴリで「頁の間から」を作りました。
古書店で本を買うと、栞が頁の間に挟まっていることがあります。
栞だけでなく出版社からの読者アンケートなども。
昔の栞のデザインなど、ときどき面白かったりしますので、
このカテゴリを作りました。



この栞は先日読んだサルトルの「嘔吐」に挟まっていました。
「高楼のひと」いう詩が綴られています。
絵的な美しい詩ですが、誰の綴った言葉であるかは判りません。



裏側には詩と共に印刷されているこけしについて説明書きがあります。
サイズまで書いているということは、
このこけしを造った会社の商品広告の栞なのでしょうか。

2017/01/28

【読書日記】2017年1月24日~27日



読書番号2017-8
サルトル 嘔吐(人文書院 サルトル全集第六巻 第2版)
読了

読書番号2017-9
カミュ 異邦人(新潮文庫 第57刷)
28頁まで

サルトルの「嘔吐」を読み終えました。
終盤頃には私も一応、実存と本質についてはこういうことかと、
自分なりに思うこともできる様になりました。
ロカンタンは最後、新しいことに取り組んでみようと思うところで
日記は終わります。
「私に試みることはできないだろうか・・・。」という一節を目にした時、
何か光の様なものを、私も一緒になって感じたものです。
この小説が日記形式を採っており、
そのせいか、ロカンタンをとても近しく感じました。
彼の考えていることすべてを感じられたわけではなくとも。

次に読み始めたのがアルベール・カミュの「異邦人」。
この本を古書店で買った後に知ったことですが、
カミュとサルトルはその思想が互いに相反していた様で、
「カミュ=サルトル論争」なる言葉もウィキペディアで
参照することができます。

この小説の最初の一節「きょう、ママンが死んだ。」は
私は何処かで目にしたか聞いた覚えがあるのです。
この作品は読んだことがないはずなのですが、
どこで触れたのかどうしても思い出せない、
不思議な思いをしています。

2017/01/24

【読書日記】2017年1月23日~24日



サルトル 嘔吐(人文書院 サルトル全集第六巻 第2版)
読書番号2017-8
146頁まで

連日、アントワーヌ・ロカンタンの日記を読み進めてきました。
独学者の語るヒューマニズムに対しロカンタンが嫌悪感を抱き、
その場を立ち去るところあたりまで。
もう彼の<嘔気>は、自身の内に密かに存在するだけのものでは
なくなってきています。

彼は、乗っている電車の腰掛けが
「座るために存在する物」という本質を超えて、
ただ其処に、「そういう形・構成をもって其処に在る物」という、
その「存在(実存)」自体に圧倒され、それが本質を無視している以上、
彼にとってそれは、死んだロバの腹と何ら違わず感覚されてしまう訳で、
<嘔気>はそういう処から突如沸き起こってくるのですね。
物の本質だけが見えている分には、
きっとこの様な<嘔気>は催さないのではないかと思えます。

ある種の、精神的疾患の様な状況に追い込まれている、
と単純に考えていいものなのか、私もよく判りません。
でも、人が何かを認識する時に、
自身の置かれた状態により対象の受け取り方というものが
まったく変わってしまうという事はあるのだと思いますし、
その感覚する側の「状態」というものは、
必ずしも他人と同じとは限らないですし、
他人の感覚を持ってそれを見ることは
いくら近しい身内であったとしても「できない」のだと思います。

人間が作るものには目的があり、
それは言い換えると本質が先行しているモノだと思います。
けれどもロカンタンの様に、
本質を飛び越えて実存が入ってきてしまう人にとっては、
身の周りのものが、それこそ奇怪なのではないでしょうか。
生まれてから一度も視力を持ったことのない人間が、
大人になってから急に目が見える様になった状態を想像して見ると、
ちょっとだけ理解できるかも知れません。
椅子を見ても、それがいつも自分の腰掛ているモノだとは
認識できないのではないでしょうか。

2017/01/22

【読書日記】2017年1月22日



サルトル 嘔吐(人文書院 サルトル全集第六巻 第2版)
読書番号2017-8
64頁まで

この小説は一度読んだだけでは
もしかしたら理解できないかもしれないと感じ始めています。

サルトルが実存主義というものを
具体例を描くことで伝えようとしている、というのが
この小説の本懐なのだと思います。
日記という形式も相まって
淡々と自身の内への問いかけ、
外部から感覚するものを読み進めることとなります。

この小説を読み始める前に、
実存主義についてWebで調べたり
サルトルの思想を扱ったNHK番組をもう一度見たりもしました。
実存(いまここに在る現実・事物)と本質(性質・目的)の関係。
存在するという事実が先に在るのであって、
本質は後からそこに宿るという考え方。
私たち個々もまず、偶然この世の中に存在しているのであって、
本質は後からそこに加わる、ということになるのでしょうか。
今日の自分自身が本質として元々在ったのではなく、
今日の自分に成ろうとして(成るような生活を選んできて)成った。
ということになるのでしょうか。

でも、だからといって、
「それが一体何だというのでしょうか」というのが
今の私の正直な考えです。
実存が本質に先立つということを知ったところで
何か得るものがあるのか、ないのか、判らないのです。
もうすこし読み進めてみます。


2017/01/21

カミュ 異邦人(新潮文庫)



アルベール・カミュ 異邦人 窪田啓作 訳
新潮文庫 第57刷
印刷 錦明印刷 昭和52年6月20日
製本 錦明印刷
カバー 麴谷宏



この本は昨年末、
神保町にある古書店の均一台で見つけました。
カミュの「異邦人」は読んだことがなくとも有名な作品です。
いわゆる、読んでおくべき作品を均一台でみつけた場合は
さいきん買っておくようにしています。すぐには読まなくとも良いのです。
やはり本は手元になければ読まないものです。
私の場合、小説については電子書籍よりも
紙の本で持っていたいと思います。
たとえば実用書であれば電子書籍でも良いと思います。
でも小説は、自分の部屋にその物語を宿した紙の本が
そこに在るという感覚や、紙面に在る物語に自分の指で触れたい、
という思いがあります。
古書であれば、そこに記された物語はもちろん、
その本自身にも、造られてから様々な人の手を経て私の元に在る、
といった物語を宿しているものです。
小説はそういう感覚や紙の匂いを感じながら読みたいと
私は思います。

ところで先に書いた「読んでおくべき作品」ですが、
そう言っても色々な定義がある様に思います。
私にとっての必読書は、
その時代を代表する文学作品であるにもかかわらず、
まだ触れていないもの、ということになります。
ドストエフスキーもトルストイも、このカミュについても
ただ一つの作品ですら、私はまだ読んでいないのです。

2017/01/21

【読書日記】2017年1月19日~20日



大江健三郎 芽むしり仔撃ち(新潮文庫 第48刷)
読了
読書番号2017-7

サルトル 嘔吐(人文書院 サルトル全集第六巻 第2版)
34頁まで
読書番号2017-8

「芽むしり仔撃ち」を読み終え、
サルトルの「嘔吐」を読み始めました。
この小説はアントワーヌ・ロカンタンという人物の日記形式で
書かれています。
彼が生活の中で直面する「嘔気」。
その正体はいったい何なのでしょうか。読み進めないと判りません。
ただしこの小説を読み込むのには、すこし時間がかかりそうです。
ある種の物語は肌に吸い付く様に私と最初から密着しますが、
そうでないものも在ります。
それは体温だったり匂い、肌の質感、硬さ柔らかさといった様なことです。
読み進めるうち徐々にしっとり、お互いの肌に慣れるものですが、
まだこの物語とはそういう風になっていません。

さて、昨夜は職場の送別会があり、遅くまで飲んでいました。
おかげで今日は一日寝てすごした様なものです。
さきほど起きて、フォーレを聴きながら机でこれを書いています。
起きたばかりでレクイエム、というのもすこし可笑しいのですが。
明日も休日ですが、今週末は古書店めぐりを控え、
掃除洗濯と読書に費やそうと思います。