2017/02/19

【読書日記】平成29年2月17日



2017-12
谷崎潤一郎 細雪(中央公論社単行本 第5刷)
226頁まで

大きな災害が起こります。
豪雨による山津波で河川が氾濫し、
洋裁学院に向かった妙子が帰ってきません。

調べてみたところ、
この災害は当時実際に起こった水害であるらしく、
阪神大水害(昭和13年7月3日〜5日)と呼ぶそうです。
妙子が洋裁を習いに行ったのは7月5日です。

この水害については
物語の中でもかなり詳しく書かれていて、
刻々と水嵩が増してゆく様子(それは本当にあっと言う間)は
不気味ですし、濁流に翻弄される場面では緊張感があります。

妙子のいる部屋の中へ水が押し寄せ、
いよいよ天井との空間がわずかになろうという時の描写は
印象的です。

本文より(細雪 全 中央公論社版 第五刷 216〜217頁)
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妙子は水面に首だけ出してゐる女史を見ながら、
死の運命が寸前に迫つた人間の顏はあゝ云ふものなんだなと
思つたが、自分も今あれと同じ顏をしてゐることが
よく分つてゐた。そして又、人間は、もうどうしても助からない、
もう死ぬのだと云ふ時になると、案外落ち着いて、恐くも
何ともなくなるものであることも分つた。・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この水害はかなりの数の死者・行方不明者を出した様ですが、
幸い妙子は板倉に救助されて無事でした。


2017/02/16

【読書日記】平成29年2月16日



2017-12
谷崎潤一郎 細雪(中央公論社単行本 第5刷)
182頁まで

それにしても、この四姉妹はそれぞれまったく
趣の異なる四人です。
ひたすら夫を支える鶴子。姉や妹を優しく見守る幸子。
細身で控えめ、けれども譲らないところもある雪子。
活動的で今日的な妙子。
物語はちょうど三分の一を終えたあたりですが、
この四姉妹を中心として、日常的な色々の出来事が
綴られてゆきます。

この小説の時代背景は、
このあと戦争が激しくなってゆくという頃で
蘆屋の家で舞の集いが催される場面でも、
”さう云ふことは差控へるべき時局下であるから”などと、
豪奢に装うことを憚る様子が垣間見られます。
それでも、ここまで読む限り全般的にその”影”は
生活全体を覆ってしまう程では、未だありません。

この小説がどの時代までを描いているのか
読み終わってみないとわかりませんが、
この時代を描いている物語である以上、
その暗雲の気配には敏感にならざるを得ないのです。
殊に、この様に愛すべき四姉妹であるからには。


2017/02/15

【読書日記】平成29年2月15日



2017-12
谷崎潤一郎 細雪(中央公論社単行本 第5刷)
140頁まで

引き続き、鶴子、幸子、雪子、妙子 四姉妹の物語を
読んでいます。

この小説の魅力のひとつだと思っているのが、
関西の言葉遣いです。
家族の中で交わされる日常の会話に
私はとても親しみを抱くのですが、
それは会話の内容だけでなく
関西弁が持つ調子もひと役買っている様な気がします。
これをすべて東京の言葉に置き換えてみると、
だいぶ趣が変わってくる様に思うのです。

ところで、ふと思ったのですが、
この小説を読んでいると
「渡る世間は鬼ばかり」を思い出します。
たしかあのドラマも四姉妹でしたね。


2017/02/14

夏目漱石 草合(春陽堂 縮刷)



夏目漱石 草合
春陽堂 縮刷 第13版
印刷 川崎活版所 大正9年4月10日













漱石の「草合」です。
「坑夫」と「野分」が収められています。
以前も春陽堂の縮刷で「彼岸過迄」をここへ載せましたが、
同じ大正9年の印刷となります。

経年でだいぶ色が褪せていますが、
当時、この布張り天金の本は
出掛けるときに思わずカバンに忍ばせたくなる様な
そんな存在だったのではないでしょうか。
大きさも、ちょっと持ち歩くのにちょうど良い大きさです。

小春日和のなか、
路面電車の窓から入ってくる暖かな風が
この本のページの間を抜けていった、
そんな風景が浮かんできそうです。
そして当時、この本のページを繰っていた人は
いったいどんな人だったのでしょうか。


2017/02/14

【読書日記】平成29年2月14日



2017-12
谷崎潤一郎 細雪(中央公論社単行本 第5刷)
110頁まで

読み進めるうちに、この物語の主人公である
姉妹(幸子、雪子、妙子)それぞれに
愛着の様なものが湧いてきます。

じつは四姉妹なのですが、
一番上の姉(本家の姉)については今のところ
名前もよく解らず、私が見過ごしていなければ
単に「姉」としか書かれていません。
でも此処へきて、どうやら本家の夫妻が
夫の栄転で東京へ越すことが決まったらしく、
その「姉」が上本町の家が名残惜しく思っている様子を
描いているところ辺りまで読んだところです。
このさき、この姉の人となりをもう少し
知ることができるかもしれません。

この小説は美しいと思います。
とくに幸子が雪子のことを思いやる様子など
とても優しく描かれています。
京都に桜を見に行き、ふと、
来年はもう雪子は嫁いでしまって一緒には
桜を見に来られないかもしれない。
散りゆく花と、年頃の妹の最盛の頃の様子が重なって、
なんとも儚い感じを抱かせます。

この小説は先にも触れたとおり、
戦時中に書かれた作品ということです。
市民生活の中に在る、慎ましやかで美しいものを、
あの様な時代だったからこそ
谷崎は描きたかったのかもしれません。


2017/02/13

二葉亭四迷 浮雲(岩波文庫)



二葉亭四迷 浮雲
岩波文庫 第12刷
印刷 法令印刷 平成28年5月16日 第12刷
製本 法令印刷
カバー 精興社



私も新本(新品の本)を買うことがあります。
むしろ以前は新本ばかり買っていました。
「浮雲」もそのひとつです。この本を買った頃はまだ
購入日を控えておく様な習慣もなかったのですが、
印刷日を見ての通り、それほど以前のことでもありません。

この本を買ったきっかけですが、
日本文学というものをきちんと読み込んでみるべきだと
その頃思ったからです。それでは一体いつの頃から、
今の人でも普通に読める様な文体で小説は書かれ始めたのだろうと
思うわけなのですが、そこで「言文一致」というものを意識します。
文語だと読んでも意味がよく解らないので、
口語体で書かれた小説を初期のものから読もうと思いました。

一般的にこの「浮雲」が言文一致の記念碑的な作品と
認識されている様なので、まず読んでみようと思って買ったのです。
巻末で中村光夫氏が解説している様に、
この小説は今日の体裁から見るとちょっと見慣れない部分があり、
たとえば最初の方は句読点がなく、文章の区切りとして
言葉と言葉の間に空白を設けていたり、
会話の部分でカッコとじ( 」)がなかったり、
白抜きの句読点( 、)は最初印刷ミスかと思いました。
今日の文章表現に至るまでの過渡期にあった作品なのですね。

でも物語自体は現代の作品と同じ様に、
読んでいるうちに引き込まれました。
今の小説と同じ様に愉しむことができました。
二葉亭の作品で私は「其面影」「平凡」も読んでいます。
そのお話はまたいつか。

それにしても、奥付を見て思ったのですが、
岩波文庫に本作品が加えられたのは2004年なのですね。
案外遅い様な気がするのは私だけでしょうか。


2017/02/13

【読書日記】2017年2月13日



2017-12
谷崎潤一郎 細雪(中央公論社単行本 第5刷)
72頁まで

こんばんは。
いつも思うのですが、
本文が二段組構成の本というのは
読んだ文字の量と、繰るページ数のバランスが
文庫本に慣れ親しんだ者としては
すこし調子が狂う様な気がします。
言葉で表すのは難しいのですが、
あえて言えばリズム、とでも言うのでしょうか。
私だけかも知れませんが。

今読んでいるのは、
雪子が瀬越との縁談を断ったところ辺りです。
正確には本家の姉が相手の家を調べて断ったのですが。
以前読んだ実篤の「若き日の思ひ出」も
似た様な記述があったと思うのですが、
昔の人というのはずいぶん綿密に相手の家のことを
調べてから結婚したものだな、と思います。
興信所まで使うと言うのは、
今の感覚だとちょっと考えられないのですが。

それに、今回の縁談が破談になった理由というのもまたすごいです。
瀬越の母親が精神の病を持っているということが理由な訳で、
その母親の息子と雪子の間にできるであろう子供も
精神的な病を抱えないとは誰も保証できない、
などという思いから破談にしてしまうのです。
雪子は自分が病弱でないことを証明するために
胸のレントゲンを撮って現像したものを瀬越に送ることまでしたのに。
(それも義兄が言い出したことですが)
とにかく当時は、当人同士の意思というものが
それほど尊重されない時代だった様に思えます。

ともあれ、関心するのは人々の義理堅さと礼節です。
相手のことを思いやる気持ちというものを
この小説に出てくる人々は持っています。
読んでいると「きちんとした生活」とでもいった感じを抱きます。
2017/02/12

安部公房 他人の顔(講談社 単行本)



安部公房 他人の顔
講談社単行本 第2刷
印刷 (株)常磐印刷所 昭和39年11月20日
製本 大光堂
装幀 松本達



安部公房「他人の顔」です。
この小説はすこし前に読書日記でも触れました。
その時は新刊書店で買った新潮文庫で読んでいました。
その後すこしして、西部古書会館の古書市で
単行本が並んでいるのを見つけて買いました。
同じ小説を二度も買うというのは無駄な様な気もするのですが、
好きな作家ですし、すこし経ったら単行本で読むのもいいなと
思ったのです。

この小説はどうだか判りませんが、
時々、文庫化する際に作品の一部内容を変更する場合などもあり、
まったくの無駄でない場合だってあるのです。
そしてなにより、
その小説が世に出た時の姿に(厳密には第二刷ですが)接する
という愉しみもあるのです。



この本の装幀ですが、
一枚目の写真に載っている表紙の卵の様な物体は
おそらく、のっぺらぼうの「顔」なのではないかと思っています。
そもそも人間の顔とは何か、ということもこの小説のテーマのひとつ
ですので、そういう感覚を表しているのではないかと。
そして三枚目の写真は表紙の裏側の様子です。
のっぺらぼうの後に公房さんの顔が出てくるというのも、
ちょっとしたユーモアを感じます。

2017/02/11

【読書日記】2017年2月10日

中央公論社版 第5刷 表紙より


2017-12
谷崎潤一郎 細雪(中央公論社単行本 第5刷)
40頁まで

開口健の「輝ける闇」のあと、
何を読もうかと本棚の背表紙を眺めていました。
戦争の小説を読んだあとですので、
すこし違った趣のものを読みたい、そう思いました。

「細雪」を読むことにしました。
谷崎の小説は幾つか読んでいますが、
しばらく遠ざかっていたのと、「細雪」は未だでした。
以前このブログで書いた様に、
私の本棚には中央公論社版(昭和25年 第5刷)があります。
上・中・下巻が一冊に纏まったものですので結構な厚みとなり、
印刷が昭和25年ですので経年劣化も目立ち、
背表紙は剥離しかかっています。
それでも、私は出版当時の雰囲気を味わいたいと思いましたので
大切に布のブックカバーで覆って持ち歩いています。

ところで、とあるNHKの番組のなかで
谷崎潤一郎が「細雪」を執筆したときの様子を
再現ドラマで見る機会がありました。
この小説は1943年1月に月刊誌 中央公論で連載開始した様です。
ところが5ヶ月後に連載中止となってしまいます。
戦時中ということもあり、戦意昂揚が必要とされる中で、
この「細雪」は時代にそぐわないという理由で
連載中止となってしまったそうです。

それでも、谷崎は「細雪」を執筆し続けます。
「疎開日記」という日記には、
ひたすら「細雪」を執筆する日々のことが綴られているそうです。
空襲の最中でも「余は細雪を執筆す」と綴られているそうで、
この作品へ並々ならぬ思いを持っていたのでしょう。
機会があれば「疎開日記」も読んでみたいです。

「細雪」は大長編です。
ここしばらくは、この本を鞄の中に入れて生活する日々が
続きそうです。

2017/02/11

【読書日記】2017年2月9日(追記)



2017-11
開高健 輝ける闇(新潮社単行本 第5刷)
読了

「輝ける闇」を読み終えました。
物語の最後は前線で敵に遭遇し、四方八方から弾丸が
飛んでくる中を退却する場面で終わります。
この辺りの描写は息遣いが聞こえてくる様ですらあります。

以下はその中の一節です。(240頁より)
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私は迎えた瞬間にふるえあがって閉じた。鼻を枯葉におしこみ、
私は眼を開き、眼を閉じた。暗い肥沃な枯葉の匂いが鼻を刺した。
眼は瞬間に見た。無数の蟻の群れが右に左にせっせと勤勉に
はたらき、一匹の蟻は体の数倍もある病葉の一片を顎に咥えて
よろめいていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この描写は、そこに居た人でなければ書けないと思います。
戦闘中、地面に顔を押し付けると、
いつ死ぬかも判らない様な状況にあってさえ、
まったくこの差し迫った状況に居る自身とは無縁なものが、
そういうものが眼に留まるという現実。
人間の命のやり取りの現場であってさえ、
その足元ではいつもと変わらず蟻たちが生活し続けているという現実。
どこか、人間の営みが滑稽なものにさえ思えます。
この一節はすばらしい表現だと思います。