2017/01/24

【読書日記】2017年1月23日~24日



サルトル 嘔吐(人文書院 サルトル全集第六巻 第2版)
読書番号2017-8
146頁まで

連日、アントワーヌ・ロカンタンの日記を読み進めてきました。
独学者の語るヒューマニズムに対しロカンタンが嫌悪感を抱き、
その場を立ち去るところあたりまで。
もう彼の<嘔気>は、自身の内に密かに存在するだけのものでは
なくなってきています。

彼は、乗っている電車の腰掛けが
「座るために存在する物」という本質を超えて、
ただ其処に、「そういう形・構成をもって其処に在る物」という、
その「存在(実存)」自体に圧倒され、それが本質を無視している以上、
彼にとってそれは、死んだロバの腹と何ら違わず感覚されてしまう訳で、
<嘔気>はそういう処から突如沸き起こってくるのですね。
物の本質だけが見えている分には、
きっとこの様な<嘔気>は催さないのではないかと思えます。

ある種の、精神的疾患の様な状況に追い込まれている、
と単純に考えていいものなのか、私もよく判りません。
でも、人が何かを認識する時に、
自身の置かれた状態により対象の受け取り方というものが
まったく変わってしまうという事はあるのだと思いますし、
その感覚する側の「状態」というものは、
必ずしも他人と同じとは限らないですし、
他人の感覚を持ってそれを見ることは
いくら近しい身内であったとしても「できない」のだと思います。

人間が作るものには目的があり、
それは言い換えると本質が先行しているモノだと思います。
けれどもロカンタンの様に、
本質を飛び越えて実存が入ってきてしまう人にとっては、
身の周りのものが、それこそ奇怪なのではないでしょうか。
生まれてから一度も視力を持ったことのない人間が、
大人になってから急に目が見える様になった状態を想像して見ると、
ちょっとだけ理解できるかも知れません。
椅子を見ても、それがいつも自分の腰掛ているモノだとは
認識できないのではないでしょうか。

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